観音様とともに70余年。思いやりの宿
花紋屋旅館
観音様とともに70余年。思いやりの宿
「中田の観音さま」のお休み処から宿へ
花紋屋旅館が宿として開業するようになったのは70年以上前のこと。現在、女将として宿を営んでいるのは、花紋屋旅館で生まれ育った山内絹江さん。女将として家業を継がれて33年になります。山内さんの祖父母が戦争で疎開してきた人を受け入れたことが、宿として開業するきっかけになったそうです。その後、農地開発で訪れた人々が寝泊まりするようになり、正式に旅館業として開業することになりました。
それ以前は、弘安寺にお参りする人たちのお休み処でした。弘安寺は鎌倉時代に創建された古刹で「中田の観音さま」とも呼ばれ、全国から参拝客が訪れます。車が普及する前は多くの人が汽車を利用していたため、その待ち時間に飲み物や食べ物を提供していました。「味も美味しいと評判で、常に人の出入りが絶えなかったの」と、山内さんは幼少期の懐かしい記憶をたどりながらお話してくださいました。
開業当時はお休み処と旅館業を並行していましたが、現在は山内さんがお一人で営んでいるため旅館業に専念されています。
おもてなしの心がつむぐ縁
女将さんは、これまで宿に訪れた様々な人々について、まるで昨日のことのように楽しそうにお話してくださいました。
定期的に利用されるのは農産物の取引や出張に訪れる人で、リピーターの中には30年以上の付き合いになる方や、居心地の良さを気に入り毎年利用されるお客さんもいらっしゃるとのこと。
「私は会津以外の場所に住んだことがないから、旅で訪れるお客さんたちのお話はすごく勉強になるの。教えてもらうことがすごく多い」と話す女将さん。
会津美里町のりんごの美味しさに感動し、農家さんから100箱も購入して宿から発送した人がいて、会津は農産物がすごく美味しいことをお客さんから教えてもらったといいます。毎年千葉から狩猟を楽しみに訪れる人たちとは長年のお付き合い。普段は野菜や卵などを作る生産者さんで、特別価格で新鮮な作物を送ってもらい、美味しい食べ方などを教えてもらいます。農村の中を走る只見線の姿を撮りたいと、各地を巡っている“撮り鉄”さんもよく利用されるそうです。奥会津へアクセスしやすいのもいいですね。
気っ風のいい女将さんはいつも前向き。様々な目的で訪れるお客さんたちを笑顔で迎えます。
また、中学生の合宿を受け入れたり、高校生の下宿先として3年間面倒見たりということも。「当時は手探りだったけど、いま思えばやってよかったと思う。お客さんから教えてもらうことも多いし。楽しかった」と、当時を慈しむような表情でお話されました。
「お客さんには我が家に帰ってきたようにのんびり寛いで、居心地よく滞在してほしい。また来るねって言ってもらえるのが一番うれしい。やっててよかったって思える」と、にこやかに応えてくれました。おもてなしすることが本当に好きな気持ちが伝わってきます。
そんな女将さんの人柄が、長年訪れるファンに愛される秘訣なのかもしれません。
“また食べたい”と言われる味を目指して
お料理はすべて女将さんの手作り。「決まったメニューはないの。そのときの旬の食材と、観光のお客さんには会津の郷土料理、地元の人には家庭料理にしたり、年齢や連泊かどうかでも変えたりしているの」。自宅の庭で育てているとれたて野菜を使用したり、生産者さんから聞いた美味しい食べ方で新しいメニューを考えることも。
連泊のお客さんから「今日のごはん楽しみ!メニューはなに?」と聞かれたり、「あれ美味しかったから今日も食べたい」とリクエストされたりするときは、できる限り応えるようにしているそうです。食べる人のことを考えて作られた愛情たっぷりのお料理、味が恋しくなってまた食べたくなるのもうなずけます。
会津の歴史をめぐる旅の拠点に
旅館の目と鼻の先にある「弘安寺(中田観音)」は日本遺産“会津三十三観音”三十番札所で、正式名称は普門山弘安寺。曹洞宗のお寺で、国の重要文化財である銅造十一面観音像、不動明王、地蔵菩薩像を所蔵しています。
また、 “会津ころり三観音”としても有名で、本堂内にある柱に抱きつくと健康に過ごせて、病に伏せたときは長患いをしないですむといわれています。“会津ころり三観音”は他に西会津町の鳥追観音、会津坂下町の立木観音があります。
野口英世の母シカさんが、はるばる猪苗代町から息子英世の無事を月参りで祈願するほど信仰していたことで知られ、英世自身も帰国の際に参拝し、当時の写真が本堂の外に飾られています。
会津地方は東北地方で最も早く仏教文化が花開いた「仏都」とも言われ、貴重な文化財を所蔵している有名な神社やお寺がたくさんあります。隣接した会津若松市は城下町として栄え、現在も多くの人々が訪れる有数の観光地です。
花紋屋旅館を拠点に、会津の歴史に思いをはせてみてはいかがでしょうか。